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昭和20年8月6日、親父は広島の宇品に駐屯していた。「暁部隊」という陸軍の船舶砲兵団に所属して、北はアリューシャン列島、南はラバウルと戦地を巡り、なんとか無事に戻っての内地勤務だった。
中心地からは離れているとはいえ、あのピカッと光る閃光と、その後の爆音と爆風は今までにない強烈なもので、しばらく何が何だかわからない状態だったらしい。
そんな話をしてくれるようになったのは、私が親父の付き人修業をするようになった頃だったろうか。
市内に向かった親父の見たものは、瓦礫の山となってしまった町、道々には息絶え絶えの人々が火傷をして身体が真っ黒になりながら親や子の名を呼びながらうろたえている。親父はそんな場面を思い出すことによって、自分に襲いかかってくる原爆の恐怖に耐えられなくなるんだ、と話してくれた。
確かに、何日にもわたる市内での兵隊としての救助活動は並大抵のことではなかったろう。放射能をどのくらい浴びていたのだろうか。そして終戦を迎え、やっと帰ってきた親父を襲ったのは、明らかに被爆した身体との戦いだった。白血球は1800まで落ち、寝ても起きてもだるく、また眩暈が毎日続く。頭髪はすべて抜け、当時の帝大の医師からも何の手立てもありません、と見離されてしまう程の状態だった。
何とか生き抜いていくんだ、何とか舞台での仕事をまたやれるようになるんだという一念で、少しずつ体力を取り返し、昭和24年、私が生まれた頃くらいからやっと仕事も出来るようになったと聞いている。
お笑い三人組が始まって、元気に明るく「アハハ、ウフフ」と笑いを振りまいていた頃も、本番前後には横になったり休んだりしながら仕事をしていた。もう既にその頃は放射能の影響よりも、そのために起こる不安の方が強かったのだと思うが、そんな苦労をしながらの親父の芸能生活を知る人は少ない。
しかしながら親父のすごいところは、仕事ではそんな弱い面はひとつも出さなかったことだ。また日頃の努力も並大抵のことではなく、健康にいいと言われることはすべてやっていたし、体力を作るためにかなり長期に渡り競歩やトレーニングなどに励んでいた。
常に何事にも真面目で、事あるごとに私に物事の道理を説いてくれたり、また了見の違うことに対しては、たとえ他人事でもかなり激しく怒ったりする親父だった。

平成13年に80歳の生涯を閉じてあの世に旅立った。七回忌が過ぎた頃、私は親父との約束を思い出した。「俺が八十八になったら、お前猫八を継げよ。俺はやそはち(八十八)になるから」その年である平成21年10月に私は四代目猫八を襲名した。何ということはない。亡くなっても親父は私の背中を押してくれた。「何をぐずぐずしているんだ。襲名するなら今しかないぞ」親父の優しい笑顔と、しっかりとした声が聞こえてくるようだった。
四代目猫八として歩みを始めてから1年半ほど経った平成23年3月29日、今度は私の息子が二代目の小猫を襲名してこの道を歩み出してくれた。これには親父もどんなにか喜んでくれたことと思う。
しかしながら、この年は東日本大震災に見舞われ、おそらくここ何世紀かの日本の災害の中でももっとも大きなものになってしまった。まだまだ復興には時間がかかることだと思う。私たちに出来ることはこれからも精一杯お手伝いしていきたいと思っている。
もう一つの重大な災害となってしまった原発の事故はこれから終息までいったい何年かかり、しかも今後どれくらいの被害が広がっていくのか、まったくわからないほどのダメージになってしまった。原発の安全神話も失われてしまい、放射能の恐ろしさを毎日のようにニュースで報道している。
この状況をあの世で親父はどんな風に思っているだろう。自身、放射能の影響でつらい思いをしてきた親父にとって、どんな気持ちなのか。今度ばかりは、何も私たちに言葉で伝えることが出来ないことを、あの世で、もどかしく思っていることだろう。
(えどや ねこはち)
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