国連が生物多様性年とした2010年、秋には生物多様性条約の第10回締約国会議(COP 10)が名古屋で開催されます。この年、国立科学博物館では我らの仲間「哺乳類」をキーに多様性を考えてみようと、「大哺乳類展|陸のなかまたち」を3月にオープン、好評裡に会期を終えました。7月になるとパート2、「海のなかまたち」が始まります

すっかり陸上での生活に適応していた哺乳類が、ふたたび脊椎動物のふるさと、海に戻っていったのはいったいなぜでしょう。魚影濃い水辺で豊かな海の幸に誘われたのか、あるいは陸上に次々と現れる哺乳類の新しい分類群との競合に敗れたのか。かれらが海に還った理由や原因は謎ですが、今日の海でイルカやクジラなど海の哺乳類に出会ったときの興奮を考えると、よくぞ困難な回帰の途を選択してくれたものと思います。
さて、「大哺乳類展|海のなかまたち」へようこそ。地球最大の動物シロナガスクジラ、1000mを超える究極のダイバーマッコウクジラなど、みどころは目白押しです。
目玉のナンバーワンとして製作した、マッコウクジラの頭部とダイオウイカの実物大レプリカについてお話ししましょう。実は、国立科学博物館地球館の常設展示にマッコウクジラの全身骨格があります。地球館開館の時には精密フィギアも発売され人気を呼びました。地下3階では標本ができるまでの出来事をまとめたビデオ番組もご覧になれます。静岡県大須賀町(当時)の海岸に打ち上がっていた体長15mのマッコウクジラ、現場ではその巨大さが印象的でしたが、いざ展示してみるとちょっと迫力に欠けます。少なくとも二つ問題があります。まずはなんといっても標本までの距離が遠いことが問題です。次に、マッコウクジラの巨大さを印象づける最大の要素は大きく盛り上がる頭部の造形ですが、骨格標本にしてしまうとこれがほとんど消え去ってしまうのです。
今回の特別展では、この悔しさをなんとか解消しようと、もう一度、今度は鹿児島県の加世田市(当時)で打ち上がって死んでしまった体長16mのマッコウクジラの骨格で、マッコウクジラの巨大さを体感できるような展示を工夫しました。まず、間近で見えるような配置が第一です。今回はほんとうに目の前で見ていただけるようにしました。さらに、彼らは1000mを超える深海に潜るのが特徴ですから、真っ逆さまに潜っていく姿を選びました。頭骨だけで長さが約5m、特別展会場の天井高は8mしかありませんので、頭だけでぎりぎり一杯です。
頭骨だけの展示では、やせてしまって迫力がなくなるのは経験済みですから次の工夫は、巨大な頭部の骨以外の部分です。体の大きな動物の場合、土や砂に埋めて骨以外の部分を腐らせて骨格標本をつくるのがふつうです。巨大な頭部の膨らみを展示するには、その腐ってしまう部分をできるだけ忠実に再現しなければなりません。この頭部には、「脳油(spermaceti oil)」とよばれる油脂(クジラの体温ではほとんど無色の液状ですが、冷えると白いどろどろになるのでマッコウクジラの英名「精液クジラsperm whale」がつきました)の詰まった袋が入っています。捕鯨業界では、この脳油の詰まった袋を、「ケース」、その下にある淡い紅白の縞模様の物体を「ジャンク」とよんでいました。この用語は今日の生物学の世界でも引き継がれています。これまで解剖したマッコウクジラの調査結果や文献のデータをもとに実物大の模型を作製して頭骨にのせて、巨大な頭を理解していただこうというわけです。
これらの構造は大きさといい、構造の複雑さといい、なぜこうでなければならないのか不思議です。マッコウクジラが暗闇の深海で、音響探査するためのソナーの音源として、さらにはもしかすると強力な音響エネルギーでエサ生物たるダイオウイカなどをしびれさせているのかもしれないなどという仮説も知られています。
ところで、ちょっと雑学。石油ストーブなどに使ういわゆる「灯油(kerosene)」、その名の通り灯りのための油として19世紀半ばにカナダで開発されました。それまで西欧の灯油としては明るくてススがでないマッコウクジラの脳油が、最高でしたが、どうやら値段が問題だったようです。ゲスナーという地質学者が石油から「灯油」を抽出し、安価な灯りが提供されるようになりました。間もなく「灯油」は石油から精製されることになり、アメリカのマッコウクジラを対象とした捕鯨業は衰退に向かいます。ちなみに、灯油は今日ではジェット燃料としての需要の方が重要になっています。
マッコウクジラはハクジラです。30mにもなるシロナガスクジラをはじめ20m近くあるいは20mをこえるようなクジラたちはいずれもヒゲクジラです。プランクトンや小型の魚の大群を、一挙に捕食するヒゲクジラに比べると、一匹一匹エサ生物を追っかけて捕らえるハクジラは、あまり大きくならないのがふつうです。獲物を追う運動能力やコストが問題になるからです。ハクジラのマッコウクジラが20mにもなることができるのはなぜでしょう。もしかすると、深海に潜ってダイオウイカなどを捕らえる生き方の効率が非常に高いからなのではないでしょうか。
このほか、今回の、特別展ではクジラやイルカの食べ方にもスポットをあてていいます。是非、会場でそれらの展示をご覧いただきますよう。
(やまだ ただす・国立科学博物館動物研究部)
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