年が明けて如月を迎える間に、当社では年末年始の諸行事を奉仕し、小正月を迎え、いわゆるどんと焼にて各家庭の正月飾、門松、年末のお焚上げに間に合わなかったお札を焚き上げます。以前はこの日が成人式でしたね。そして大寒と共に弓道部は寒稽古に入ります。床が凍るように冷え込む中、立春迄毎日励みます。
二十五日には初天神の「替えの神事」。鳥を象った木製の神符は、ひとつひとつ手彫りで、彩色もします。以前は父(先代)が彫り上げ、彩色を手伝うという手順でしたが、今や小刀を手に一から手順をふむ形になってしまいました。特に習ったわけではありませんが、自然と伝承され今に至ります。初天神祭の後、氏子さん、奉賛会、崇敬会一同と共に新年会。新年の顔合わせはよいものです。この一年の意気込が伝わってきます。そろそろお祭りの話も出たりして……。そして、いよいよ「うけらの神事」の奉仕、明けて立春。
節分は古くは年始めを迎える行事で、当社では「宝舟の神事」と共に大晦日に行われました。悪鬼を拂って新年を迎えたのです。一年の四季には、立春、立夏、立秋、立冬の節目があります。古来より、特に冬から春に移る立春は、節気による正月節として重んじられました。そして節分の日に、厄災を祓う様々な行事が行なわれています。柊の枝に鰯の頭を戸口にたてたり、炒った豆を撒いたりと、地方によっても特色があります。当社では「うけらの神事」です。
うけら(朮)は薬草で、キク科の多年草です。健胃薬、解熱、利尿剤として用います。根は芳香性があり、乾燥させて焚きます。湿気をはらい、細菌の繁殖を防止し、邪気を避けるとして用いられます。蒼、白とあり、当社は後者です。江戸時代、三橋五條町に鎮座していた頃の書物には「白の神事」と記されています。

方相氏 写真/原義郎
「うけらの神事」の詳細は、午後三時の呼鼓と共に、年男、年女、総代各位、厄年の方、崇敬者諸人たちが続々と社殿に昇殿参集。始めに祭典。次に、黄金の四つ眼に熊の皮を蒙り、黒の衣で朱の袴を着けた悪鬼を拂う役の方相氏が、桃の弓、葺の矢を執って入場し、社殿前で「四方祓の舞」。次に齋主が社頭にて「蟇目式(ひきめのしき)」。鬼門に向かい蟇目矢を射る作法で、祭員、年男等が「大神の依さし給える生弓矢(いくゆみや)」と三唱。齋主は受けて「いでや祓はん四方津醜女鬼(よもつしこめき)」と大音声のもと、葺の矢束を大地に叩きつけます。同時に赤鬼青鬼に姿をかえた病鬼が乱入、神前にて方相氏と四つに構えて、取静められます。ここで副斎主(現在は年番町の代表)との問答に入り、病鬼は凄んではみますが、副斎主にその行いの愚かなること、御祭神の威光により悪事はすべて静められている神話や故事をあげられて、神の国には住めないと諭されます。両鬼は平伏「あな恐ろしの神国なり、許させられ」と退散。斎主の「鬼は外」に続き、方相氏の矢束で桃の弓を叩く事三度「鬼は外」を連呼して鬼を追い、年男も続きます。故事に習い「福は内」は唱えません。そして行事中社殿では常にが焚かれています。「うけら餅」はを焚き乍ら餅を食べると一年中無病息災に暮せると云い、一名「うけら餅の神事」とも云われます。
この追の神事は漢土文化の伝来したもので、七、八世紀頃日本に伝わり、以来宮中や民間でもこの様に年中行事の一つとして定着しました。医薬祖神である当社の神事は平安朝の追に倣ったもので、江戸時代特にもてはやされたと云います。
神事を奉仕しているうちに、気がつけば境内は梅の香が漂い、白木蓮と共に蕾ほころび、福寿草に寒あやめとすっかり春模様です。母のようにこまめに手入れは出来ませんが、散歩の足をのばしてみて下さい。はなの頃には、念願の御鎮座一九〇〇年記念事業のひとつ、表参道の整備も整い新しいスロープも出来上がります。
(しざわすみえ・五條天神社宮司) |