湯島天神下の角、店の目の前にピンク電話がありまして、あっ小沢昭一さんが話しているって、うちの従業員がみつけて、入れ替わり立ち代わり見てましたら、「そんなに見られたんじゃ、入らないわけにゃいかないなー」って、入ってらしたんですよ。もう四十年も前のこと。この裏道の羽黒洞の木村東介さんと懇意にされていたようで、それでいらっしてたのかな。どこが気に入ってくださったのか、それから二十年ほどはおみえいただきました。その間に、床屋は二階に移し、一階にレストラン「タノ」を開いたが、小沢さんの散髪はずっと僕がやってました。床屋の方は昨年の五月に閉じました。
まずは予約の電話が入ります。毛質はそれほど硬くもなく、それほど細くもなく、やりずらくなかったです。一種独特なカットなんですが、ポイントは三つ、髪に線を引かずに自然に流す、後を少し膨らませる、耳のところ三角形の角度を入れて少し耳にかかる感じにする。その角度が難しいが、そこだけであとはお任せです。ヒゲもそんなに濃くなかった。
一ヶ月か一ヶ月半の間隔でしたか。地方に行ってどうにものびてしまうと、あちらでやるものの、ダメー、直してくれーなんていらっしゃいます。テレビでたまたま見て少し伸びているなそろそろかなーと思っていると、いらっしゃったり。あの頃は4500円でしたが、毎回1万円札を置いてくださいました。
一度うちの女の子がモデルのような話がラジオの「小沢昭一的こころ」にでて、お見えになった時に、先生、わたしあんなこと言ってません、怒ってすねて。そんなこともありましたよ。先生といわれるのはあまり好きでなかったようで、僕は小沢さんとおよびしてました。
テレビに小沢さんと一緒に二回でました。二度とも坊主にしたんですが、最初が小川宏ショー。たしか舞台の坊主の役づくりで。写真の私が30才ぐらいだから1975年頃ですか。二回目はNHKで、うちの二階でカットしているところを撮影しました。釣りが絡んだ番組の罰ゲームで坊主になったとおもいます。

TVの小川宏ショーで、小沢さんにバリカンをあてる田野さん
レストランをはじめてから僕は料理に専念、床屋の方はしなくなったけど、小沢さんは例外で。レストランを開ける午後3時頃までなら時間がとれるんで、その時間に合わせて3、4年は来てくださった。そのうちにお忙しくて時間も合わず、遠のきましたね。
うちは昭和十七年ごろに父がこの場所に来て、床屋を開業。僕はここで生まれ育った、団塊世代の六十六歳です。以前は噺家さんの客も多かった。鈴本さんが近いんで。先代の円楽さんや柳家三亀松さんや。三亀松さんは周りを笑わせたりにぎやかで、それで酔っぱらうと武勇伝がいろいろあって、うちの店でもヒロポンを打ったり、今だから言えますが。「坊主、飯喰いにいこう」って僕をよく連れてってくれました。仲町通りの共栄堂という洋食屋が多かった。毎回つれている女性が違ってた。それでああいう芸風が生まれる。引きついでくれる若い人たちがいますかね。おもえばなお淋しい。そんな古い芸人さんのあれこれを親父と小沢さんと二人で語り合ってもいました。数寄屋町、同朋町、町名も粋な花柳界があって、芸者さんたちは床屋で顔そりをしてましたし、旦那衆にも来ていただいて。そんな雰囲気もあのころまではあったのにねぇ。
不忍池の蓮の花は、僕らの子どものころは朝開く時にパンパンと大きな音がしたんです。その瞬間が見たくて今にも開きそうな大きな蕾を見つめていると、近くでパンと音がしてついそっちに目がいく。するとその間に見つめていたほうの花がもう開いてしまって。小沢さんも、そうだよなー鳴ったらそっちに向いちゃうなーって笑ってました。何年か前に、東大の学生達が二、三日泊まり込んで観察したけど鳴らなかった。ちかごろは聞こえなくなったようです。
蒲田の写真館の子だったころの話を伺った事もあり、放浪芸で地方を巡ってきてこうだったよという話もありました。肝腎のお仕事の話はなさいませんでしたね。
撮ってきた写真を見せてくださる事がありました。円形脱毛症になったときは、カメラ持参で頭を鏡に映して撮影していました。普通は隠すと思うんだけど。
うちの帰りに、つる瀬や、丸赤や、小福の鰻も好きで立ち寄られ、この界隈をふらふらするのがお好きだった。ここらは空襲にも焼け残りましたし。二度ほどはご自宅にも伺いました。手土産に湯島の好物をと、豆餅を持って行こうとしたら、つる瀬の社長がウチからだって言ってよォとか、ここらは白梅商店街でみんな仲間です。
最近は床屋がだめになりました。千円カットや、男性も美容院に行くようになって。本郷支部だけでも百七、八十軒あったのに、いまはその三分の一。殆どが家族経営ですよ。番を待ちながら町の話をしたりした場所なんだが、今は待ちませんから。大晦日は夜明かしでした。ゆっくり炬燵で紅白が見られたらなぁ、なんてこぼしてたのが、このごろは大晦日に休む店もある。正月だから奇麗にしようという気持ちも無くなったんですかね。
若いときから祭りバカなもんで、五月の祭りのころは察して避けてくださった。前か後ろにずらしてくださいって僕の方からお願いした事もあります。いまも町会の若い人たちに言うんです。おなじ地元に住んでて顔は見知りながら挨拶もしないんじゃ。だから祭りで喧嘩したり仲良くしようよ。祭りが町会を守っていくきっかけになればいい。じっさい若手が引き継いでくれています。
小沢さんは各地の伝承芸能を熱心に記録しました。僕らも昔からのいい伝統は残して伝えたいと思います。
お見えにならなくなってからも、たまにテレビで拝見すると頭に目がいきました。もう一度お会いしたかった。
(たのひさお・レストラン「タノ」、元・理髪店「タノ」主人) |